院長自己紹介
閑人閑話 その1
私の経歴を紹介させていただきます。生まれは、大阪です。高校を卒業して、浪人時代も大阪で過ごし、その後、宮崎医科大学医学部に入学をしました。宮崎は、温暖な所で、物価も安く、人も温厚で居心地は大変良く、約20年間宮崎で過ごしました。
第二外科では、呼吸器外科・消化器外科として、大学と宮崎県内の関連病院で勤務をしておりました。このまま、ずっと宮崎で外科医として過ごすつもりでおりましたが、父の病気のことがあり、何とか阪神地区に戻りたいという思いが強くなり、先輩が就職をされていた住吉川病院へ、2001年6月に就職させていただきました。
着任した時には、透析の経験がまったくなく、40歳からの手習いで、住吉川病院で当時院長をされておられた故井上聖士先生をはじめ、西岡正登前理事長、藤田嘉一前顧問にご指導をいただき、透析のいろはから教えていただきました。
当時は、シャントトラブルがあると主に手術で問題解決をしておりましたが、どうしても自己血管では解決できない問題も多く、当時白鷺病院の平中先生の人工血管によるシャント造設手術の見学をさせてもらいました。人工血管でのシャントは出口で狭窄が生じやすく、シャントのカテーテル治療の必要性も感じ、当時神戸大学放射線科に在席をされていた杉本先生の講演会に参加をさせていただいた折に、初対面にも関わらず、住吉川病院でのカテーテル治療(PTA手術)をお願いして、住吉川病院まできていただき、手術していただき、勉強をさせていただきました。
カテーテルの扱いは、以前呼吸器外科で、左肺の全摘術を行う時に、左肺動脈をカテーテルで一時的に血流を遮断して、手術に耐えれるかどうかの試験をしておりましたので、抵抗なく、シャントPTAをすることができました。
井上先生から、二次性副甲状腺機能亢進症に対しての副甲状腺全摘術を住吉川病院でもしたいとのことで、名古屋第二赤十字病院の冨永先生の所に、手術見学に行かせていただきました。当時は、カルシウム受容体作動薬(オルケディア、パーサビブ等)等もなく、重症の二次性副甲状腺機能亢進症に対しては、副甲状腺全摘術をしなくてはならず、冨永先生に色々とご指導を受けるうちに、住吉川病院まで来ていただき、手術を勉強させていただきました。このご縁で、深川先生が神戸大学時代に、駒場先生(現東海大学教授)のお仕事を手伝わせていただいたこともあります。
このように、内科の先生とはちょっと違った経過で腎不全、透析医療を学ばせていただきました。
勿論、病院での勤務ですので、手術だけでなく、外来通院透析患者さんの診療も行い、救急患者さんの対応、例えば、慢性腎不全の急性増悪で、近隣の施設や病院からの緊急での透析の依頼があった患者さんのへの対応も行っておりました。
腹膜透析も、井上先生から手術や腹膜透析の管理まで教えていただき、神戸市立医療センター中央市民病院の腎臓内科部長の吉本先生にご指導と連携をいただきながら、診療を行っておりました。
閑人閑話 その2
外科研修時代の思い出
私が外科に入局した当時、主任教授は古賀保範先生でした。古賀先生は、吉村昭著『神々の沈黙』にも登場する、心臓移植で有名なカントロヴィッツの右腕的存在だったそうですが、学生だった私はそんなこととは露知らず、優しく、白髪の紳士という印象を持っておりました。
当時、心臓外科グループでは小さなお子さんの先天性心疾患の手術も行っており、その様子を見ながら「自分にはこの小さな心臓を手術するのは無理かもしれない」と感じ、私は呼吸器グループを希望しました。
配属された呼吸器グループの指導医が、助教授の柴田絋一郎先生でした。柴田先生は、後にさだまさしさんの小説『風に立つライオン』のモデルにもなった方です。こうして書くと、いかにもミーハーに思われそうですが、古賀先生も柴田先生も、そのすごさを私が知ったのは入局してしばらく経ってからのことでした。
柴田先生には「しぶちゃん、しぶちゃん」と親しみを込めて呼んでいただきながら、多くのことを教えていただきました。
そんな柴田先生が、2025年2月19日に84歳でご逝去されたと伺い、心より哀悼の意を表したいと思います。
